新元号の『令和』が発表されましたが、気になるのは考案者ですよね。
今後数十年に渡って我々日本人が使う大切な元号ですから、ちゃんとした有識者によって決められたかどうかは気になるところです。
政府は有識者の特定を防ぐために公表はしていませんが、原案を依頼した有識者から日本文学に精通する人を絞り込んで調査してみました。
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新元号【令和】の考案者や命名者は誰?
【令和】の考案者は、出典元が万葉集だったことから、中西進・大阪女子大名誉教授だったとの見方が強まっています。
元々政府が元号の原案を依頼したのは、中西進教授(日本文学)を含めて、石川忠久学長(中国文学)、池田温教授(中国史)等だったと見られています。
その中で万葉集などの日本文学に最も精通しているのは中西進教授であり、ほぼ考案者は中西氏で間違いないとの推測が流れています。
新元号選定を巡り、政府が元号の考案を委嘱したのは、中西進・大阪女子大名誉教授(89)=日本文学、石川忠久・元二松学舎大学長(86)=中国文学、池田温(おん)・東京大名誉教授(87)=中国史=らだったとみられる。新元号「令和」の出典が万葉集だったことから、考案者は日本古典を研究してきた中西氏の可能性がある。
政権幹部は原案は六つだったと明らかにした。 「大化」(645年)から数えて248番目の元号で、1979年制定の元号法に基づく改元は「平成」に続いて2例目となる。
中西進教授のプロフィール
名前 | 中西 進(なかにし すすむ) |
生年月日 | 1929年8月21日 |
職業 | 日本文学者、比較文学者、万葉学者、奈良県立万葉文化館名誉館長、池坊短期大学学長、国際日本文化研究センター・京都市立芸術大学・大阪女子大学各名誉教授、高志の国文学館館長 |
出身高校/大学 | 広島大学附属高校/東京大学文学部国文学科卒業。同大学院博士課程修了 |
出身 | 東京出身 |
恩師 | 久松潜一 |
中西教授は、『万葉集』や和歌など古典文学の全体について基礎的研究を行った久松潜一教授に師事し 、現在では日本文学について最も造詣が深い人物の1人です。
そんな中西教授が自信を持って?推薦する元号なので、我々も安心して使うことができますよね。
中西進教授の経歴
中西進教授の経歴はざっと並べただけでも書ききれない程凄いですね。
特に30代で万葉集の研究で受賞し、現在まで多くの著書を書いてきたところを見ると、長く第一線で万葉集の研究を続けてきたことを物語っていますね。
30代で博士論文『万葉集の比較文学的研究』により1963年第15回読売文学賞受賞。以後日本古代文学の中国文学との比較研究を始める。漢字本文・現代語訳・注を収めた、文庫『万葉集』のテキスト講談社文庫『万葉集』(全4冊と万葉集事典1冊)を編集。研究・評論も多く著書は100冊を超える。
- 1964年第15回読売文学賞(『万葉集の比較文学的研究』)。
- 1970年日本学士院賞(『万葉史の研究』)。
- 1990年第3回和辻哲郎文化賞(『万葉と海彼』)。
- 1997年24回大佛次郎賞(『源氏物語と白楽天』)。
- 2002年京都新聞文化賞。
- 2004年奈良テレビ放送文化賞。
- 2004年文化功労者。
- 2005年瑞宝重光章受章。
- 2010年「万葉みらい塾」で菊池寛賞受賞。
- 2013年文化勲章。
出典元:中西進wiki
中西進教授の人柄
中西進教授は、全国の小学校を中心に「出前授業」を続けています。
自分のことを「万葉大好きおじさん」と言って、万葉集を積極的に子供たちに広めているんですね。
出前授業は、四国の香川県まで出向いたこともあるくらいです。
普通、ここまで偉くなった人が地方まで出向いて、授業してくれること自体あり得ませんよ。
それに調べてみると、話も感動的なようです。
万葉集の中から小学生でもわかる詩を選んで、子供たちに考えさせ、作者の気持ちの本質を捉えるといった授業を繰り返すのだそうです。
考えさせ、問いかけ、作者の歌おうとした心、その歌の本質をもののみごとにとらえさせるのです。
学識経験もさることながら、円熟した人間味、人柄がひしひしと伝わってくるのです。
もはやエピソードを聞くだけでも、人柄が滲み出てくるのが分かりますね。
万葉集を子供達に広めようと、自らが出歩くことを厭わない中西進教授。
本質は穏やかでありながら、強い意志を持った人間味あふれる人なのではないでしょうか。
中西進教授の著書『万葉集事典』が凄い
更に、今回の新元号『令和』の由来元となった万葉集”梅花の歌”について、中西進教授の著書で詳しく背景が述べられていますので、気になる方は読んでみてはいかがでしょうか?
ネット上でも、単なる万葉集を読むより、教授の『万葉集事典』の方が分かり易くてためになると評判です。
考案した人に関する世間の声は?
「万葉集」の大伴旅人が書いたとされる文を典拠としつつ、実は昭明太子編纂「文選」の「於是仲春令月、時和氣清」(張衡「帰田賦」)が元ネタ。つまり「令和」を考案した人は日本の古典から選べという政権の意向を満たしつつ、従来どおり中国の古典からとったことにもなる芸当をした賢人なのかも。
— しぎょういつみ (@s_itsme) 2019年4月1日
晋三騙した考案者はすごい。現政権の悪政状態を和暦に残した。
令和とは、腐敗した安倍政権が倒れ、自民党政権が倒れることを祈ってつけられた和暦。https://t.co/fvyKHwzSQu— 男 前太郎 (@pall336) 2019年4月1日
一部報道では中西進氏が考案者とも言われているが、いずれにせよ国文学者だったら新元号「令和」の典拠とされる『万葉集』の当該部分が、蘭亭集序や『文選』所収の張衡「帰田賦」に基づいて書かれていることに気付かないわけがないのだから、確かにこういう辺りに落とし処を持ってきたのかも。 https://t.co/BqKQgVsKKA
— GEISTE (@J_geiste) 2019年4月1日
『令和』と『平成』が選ばれた経緯が違う?
ちなみにですが、『平成』の名付け親は山本達郎東大名誉教授(東洋史)の案だったとされています。
こちらもやはり歴史文学に造詣が深い有識者による案で、最終的には漢籍(中国)に由来する平成が選ばれました。
しかし、今回と選ばれた経緯が全く違います。
平成が選ばれた際は、最終案に「平成」「正化」「修文」と3個の候補が最終的に残り、頭文字の「H」「S」「S」と、昭和との違いを明確にするために最終的に『平成』を選別しました。
しかし今回の令和は、日本の国書に意義を感じた政府が、最終案の原案に残ったとされる漢籍の元号を押し退けて『令和』を選んだとされています。
つまり、有識者もとい政府の強い意志の末に選ばれたのが『令和』ということになります。
平成が選ばれた経緯については、下記記事でも記していますので、参照して頂けたら幸いです。