渡部陽一さんというと、戦場カメラマンという常に生死をともにしている現場にはおおよそ似つかわしくない人物のような気がしませんか。
その特徴のあるスローでマイペースな語り口には、渡部陽一さんの人柄がにじみ出ていてとても銃弾の飛び交う戦場に立っている姿は想像できません。
それでも、渡部陽一さんが刻む戦場の記録はホンモノで、伝えたい、知ってほしい、という気持ちであふれています。
テレビ、特にバラエティ番組で笑顔をふりまいてくれた渡部陽一さんですが、今は戦場カメラマンに徹しているのでしょうか。
戦場カメラマンになった理由やテレビから離れた理由などを探ってみました。
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渡部陽一・プロフィール
名前 | 渡部陽一 |
生年月日 | 1972年9月1日 |
出身地 | 静岡県富士市 |
血液型 | A型 |
身長 | 180cm |
最終学歴 | 明治学院大学 |
家族 | 妻・子供 |
所属事務所 | Be.Brave Group |
渡部陽一さんは大人しい少年だったのかと思っていたら中学時代は生徒会長を務めていたといいます。
活発な少年だったんですね。
そして、美形です。
ちょっと男装の麗人と言われる『美輪明宏』さんに似ていませんか。
戦場カメラマンになった理由
渡部陽一さんはいろいろなものに感化されやすい人だったようで、高校時代は『バンカラ』にあこがれて早稲田大学への進学を目指し、2浪して中央学院大学に進みますが、この時も落合信彦氏の著書を読み、弁護士や検察官など困っている人を助ける仕事がしたいと法学部に入っています。
大学で法律家を目指していたはずの渡部陽一さんですが、生物学の授業でアフリカの狩猟民族ピグミー族の存在を知り、どうしても会ってみたくなり、何の準備もないままアフリカのコンゴ民主共和国に向かいます。
初めての戦場
渡部陽一さんは、自分が向かっている先がルワンダ紛争の真っただ中だったということはまったく気にかけていませんでした。
現地では、運よくヒッチハイクさせてもらって狩猟族のもとへ向かっていたのですが、その走らせていた車の前に突然銃をもった少年たちが現れます。
運転手に「伏せろ!」と言われ、車中にもぐりこみますが、一斉に攻撃され車に当たる銃撃による金属音のすごさに死を覚悟したそうです。
その銃撃はなんとかやり過ごしたものの、車から降りた渡部陽一さんは少年たちから銃を向けられ、カバンなど持っていた物を全部奪われてしまいます。
先に現金を差し出しのが良かったのでしょう。
命が助かっただけでも奇跡です。
伝わらない壮絶な体験
帰国後、その壮絶な体験を知人たちに話すものの、軽く流されてしまうという現実に愕然とします。
平和な日本ではとても信じがたいことで、まさか本当にそんな目にあったとは思えなかったのでしょう。
死にそうな思いをしたこと、まだ小さい少年が銃を持ち兵士となっている国があるということ、そんな状況をわかってもらえないことの歯がゆさ。
そして、そんな現場の状況を伝えるには言葉だけではなく、現実として実際にカメラに納める必要があることを痛感し写真の力にすべてをかけてみようと心を決め『戦場カメラマン』になる決意をします。
まだ大学1年生で周りは青春を謳歌しているなか、渡部陽一さんは1人戦場に取材に出向いていきました。
その後も戦場にばかり行っていたので大学を2回留年し、卒業するために試験に合わせて一時帰国を繰り返しなんとか卒業はしています。
職業・戦場カメラマンとして
1回の渡航費用はガイドも雇わなければいけないし、最低でも30万円は必要だったので、バナナを運んだりさまざまなバイトで補っていた渡部陽一さんですが、その現地で撮った写真は最初はなかなかお金には結びつきませんでした。
2001年9月『サンデー毎日』掲載
空きが出たからと連絡をくれたのが『サンデー毎日』でした。
しかも、その号の見開きグラビアページに掲載されるという画期的なデビューでした。
内戦の続くソマリアで一般市民もが戦争に巻き込まれる現実を伝えた写真で、まさに渡部陽一さんが一番に伝えたかった写真が掲載されたのです。
バナナを運んでお金を貯め、戦場に向かい写真を撮ってきて編集部に持ち込み、不採用でまたバナナを運ぶ仕事に戻る。
もちろん素人の写真など見向きもされないけれど、名刺交換をしてまた持ちこむということを繰り返していくことで仕事に繋がっていくということが実証された日でした。
『マメさは武器になる』をモットーに「粘り強く待つこと、繰り返すこと、耐えること」が重要だと言っていた渡部陽一さんの努力が実ったのでした。
※『サンデー毎日』は渡部陽一さんの父親の愛読書でもあり、この掲載が心配ばかりかけていたご両親への一番の親孝行になったことでしょう
渡部陽一さんの信念
「戦場取材は生きて帰ること」
どんな現場の仕事でも、結果を手にするために手段を選ばないというわけではない。
危機管理が8割、2割がカメラの腕。
危機管理を最優先した上で、引く勇気をもって欲張らない取材をする。
渡部陽一さんが取材する上で大切にしていることだと語っています。
渡部陽一がテレビに出た理由
一番の理由は「世界の戦場の悲惨さを知ってもらうため」でした。
誌面上の写真でその悲惨さ、命の尊さを訴え、文章でどんなに語ったところで手に取ってもらえなければ伝わりません。
2009年末、TBS『1億3000万人の法則』という番組で、戦場カメラマンの仕事についてインタビューを受けたのが、当時新婚ほやほやだった渡部陽一さんでした。
トレードマークとなっている帽子、180cmという高身長、そして何よりあの穏やかそうに語るスローな口調。
そのすべてが戦場カメラマンという厳しい職業とはかけ離れていて、一気に注目を浴びたのでしょう。
トレードマークの帽子は実は妹さんの帽子で、気に入ってしまいもらったそうです。
当初大きめだった帽子は、何度も洗濯を繰り返していくうちにちょうどフィットするサイズになり、縁起物として手放せない1品になっています。
人気番組のレギュラーに
独特な風貌と口調、そして何より聞きなれない『戦場カメラマン』という職業からか、多数の番組から出演オファーが来るようになり、テレビに出る日々が多くなった渡部陽一さんは、ついに大人気番組だった『笑っていいとも!』の増刊号のレギュラーになります。
『戦場カメラマン渡部陽一のアルタ最前線!』というコーナーでした。
『ちょこっとイイコト 〜岡村ほんこん♥しあわせプロジェクト〜』では、「岡村隆史の結婚プロジェクト」の後見人の1人として参加。
岡村隆史さんの公開お見合いに立ち会ったり、既婚者の立場からアドバイスを送ったりしていました。
浸透していく『戦場カメラマン』
本来の渡部陽一さんのテレビ出演の意図からは外れていましたが、『戦場カメラマン』という肩書が日本全国に浸透したことは確かです。
『戦場カメラマン』という職業があること。
『戦場カメラマン』が実際に向かう戦場があること。
恐怖に震える一般市民がいること。
これらが少しでも人々の心に残ってくれたら、渡部陽一さんがテレビに出演したことの意味があったと思います。
家族の想い
人気者となっていた渡部陽一さんですが、テレビに出ている間に1児のパパになっています。
家族が増え、守るべきものが増えた渡部陽一さんにとって、ジャーナリストとして危険な『戦場カメラマン』に戻るより、このままタレントとして日本に残り、戦争という現場のことを伝えていくという選択肢はなかったのでしょうか。
妻の想い
子供が産まれ、テレビでは必要とされている人として番組にひっぱりだこの夫・渡部陽一さんをみて、命の保証のない戦場には戻ってほしくない、このままタレント・渡部陽一を続けてほしいと訴えたそうです。
ところが、家族想いの渡部陽一さんではありますが、決して譲ることはありませんでした。
家族を愛するがゆえ、家族が大切だからこそ、戦場の現状を伝えていかなければならないと思ったのでしょう。
大スクープ・歴史が動いた瞬間
2003年4月9日、バクダットが陥し、サダム・フセインが逃亡するという大事件が起こりました。
その後、行方がわからないままだったサダム・フセインの拘束を目的とした『赤い夜明け作戦』が秘密裏に決行されたのが、2003年12月13日。
何も知らない渡部陽一さんがバクダットの新聞社を訪れたのが12月14日。
小さな新聞社が騒然としていて、誰も渡部陽一さんに気づかないのを不思議に思っていたところにガイドからフセイン拘束の情報が伝えられたのです。
渡部陽一さんはそのまま現場に急行。
全世界でニュースとなったフセイン拘束の情報を現地でいち早くキャッチし、取材を成功させた最初の日本人ジャーナリストが渡部陽一さんでした。
過去に放送された『金スマ』の中で、現地からカメラに向かって早口でリポートする渡部陽一さんの姿がみられます。
渡部陽一の現在
最近、すっかりテレビでみかけなくなってしまった渡部陽一さんですが、
「こんにちは戦場カメラマンの渡部陽一です。」
この言葉から始まるツイッターは変わらず毎日更新され、各地の情勢を伝え続けています。
日本にいる時は日本全国、呼ばれる限りどこにでも行き講演活動をこなしているようです。
テレビに出なくなった理由
渡部陽一さんがテレビに出なくなったのは特別な理由があるわけではないでしょう。
テレビへの出演を重ね、自身の目的である「多くの人に紛争地域の現状を知ってもらう」ことも広まり始め、『戦場カメラマン』の仕事に戻るためレギュラー番組を降板しただけだと思われます。
テレビに出始めた頃にお子さんも産まれ、まずはご家庭を一番に考えていたということもあると思います。
なぜ撮り続けるのか
恐怖はいつも感じている。
それ以上に撮影する、言葉を伝えることの想いの方が強い。
伝えることによって戦場で犠牲になる子供が減ってほしい。
そんな想いで『戦場カメラマン』として戦場の写真を撮り続けている渡部陽一さんは、毎回の現場を克明に日記に記しています。
その日記は耐久性を考えてレンガで補強されています。
米俵のようと言っていたこともあり、重さも7kgは超えていると言われています。
講演活動を通じて
戦場カメラマン渡部陽一さんの講演会が地元で開かれます。
行こうか悩んでいましたが、今日は市役所へ行く用事があったのでチケットを購入してきました。
とても楽しみです! pic.twitter.com/2x7OYqQQFE— リュウりん (@ryurin_2221101) June 28, 2021
今では、日本にいる時は各地の小学校、中学校、高校などで講演活動をしているようです。
日本人に戦場の悲惨さや命の大切さを知ってもらうため、そしてそんな戦場の状況を『戦場カメラマン』として写真におさめるための活動費を捻出するため講演活動を続けているのでしょう。
まとめ
登山家、ジョージ・マロリーさんの「なぜ、山にのぼるのか。そこに、山があるからだ」という有名な言葉があります。
戦場カメラマン・渡部陽一さんも同じように「なぜ、戦場に向かうのか。そこに、戦場があるからだ」と答えるでしょう。
戦場で子供が銃を持っている写真を公開し続けているのは、その写真からいろいろなことを感じ、このような世界が1日でも早くなくなることを祈っているからです。
そんな子供たちが少しでも減るように、そして全世界から戦争というものが無くなる日が来ることを日々願って撮り続けていくのでしょう。
渡部陽一さんご自身のお子さんに悲しい思いをさせないよう、必ず帰国するという約束を守り続けていただきたいと思います。