日本プロ野球界で28年ぶりに完全試合を達成したことで注目されている佐々木朗希投手。
佐々木朗希投手の才能は中学&高校時代からすでにその頭角を現していました。
そこで、佐々木朗希投手の中学&高校時代について詳しく調べてみました!
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佐々木朗希投手の中学時代エピソード
中学時代から才能は群を抜いていた
佐々木朗希投手が大船渡第一中学の2年生だった1年間、野球部の部長を務めた志田一茂さんの話によると、佐々木朗希投手は中学時代からすでにその才能を発揮していたそうです。
「とにかく活発な子で、スポーツテストではハンドボール投げや50メートル走など、すべての項目でずば抜けていた。負けず嫌いでしたね。私は仙台大学時代に野球部に入っていて、1学年後輩にプロ野球に進んだ熊原健人(現・東北楽天)、3学年後輩に馬場皐輔(現・阪神)がいた。そういう選手を間近で見る経験をした上で、卒業後すぐ大船渡第一中学に勤務することになったんですが、朗希は球速こそ120キロ台でも、素材という点では見劣りしなかった。
ふと思うんです。投手としての球の速さは、瞬発力と大きく関わりがあるんじゃないかな、って。朗希は中学時代、クラス対抗リレーなんかに必ず選ばれていました。高校進学後も、150キロを出した頃には、『50メートルを5秒台で走った』という噂が聞こえてきました。さすがに163キロには驚きましたが、それに至ったのは彼の瞬発力が大きく影響しているのではないでしょうか」
引用元:ポストセブン
野球に関して研究熱心だった佐々木朗希投手は、理想のフォームを探し、情報を集めては日々グラウンドで実践していたとか。
ただ野球をやることだけが好きなのではなく、野球という競技を極めて自分のものにしようとする向上心が凄かったんですね!
急成長による怪我との闘い
そういう佐々木朗希投手にも野球を続けられなくなるくらい困難な時期がありました。
一番の原因は成長期に伴う急激な身長の伸びだったそうです。
「入学した時点では朗希の身長はまだ160センチ台で、中学3年間で20センチ以上伸びました。成長痛とうまく付き合わなければならず、腰も疲労骨折して投げられなかった時期が本当に長かったんです」
佐々木が中学時代にエースナンバーを背負ったのは、中学2年生の秋だけだ。そして3年生になる直前の2016年初春に腰の疲労骨折が判明した。
引用元:ポストセブン
現在も大船渡第一中学で軟式野球部のコーチを務めている鈴木賢太さんは大きな決断を下します。
「朗希は投げたかったと思います。最大の目標を最後の大会に置いていましたから、夢を奪われたような気分だったかもしれない。朗希は悔しくて、ボロボロ泣いていました。でも、その病院のトレーナーさんが、『頑張れば、もしかしたら間に合うかもしれないから』と声をかけてくれて……」
引用元:ポストセブン
コーチから大会を休んでリハビリを優先するように言われたことで、悔しさのあまり泣いてしまった佐々木朗希投手・・・。
しかし恩師や周りの支えがあったおかげで、リハビリに向き合い野球を続けることができたそうです。
進学高校でも仲間との絆を優先
怪我で思い通りに野球ができなかった佐々木朗希投手ですが、それでもその実力と将来性を見込んで花巻東や盛岡大附属など、岩手県内の強豪私立から声がかかりました。
ですが、佐々木朗希投手は強豪からの誘いを断り、地元の岩手県立大船渡高等学校に進学しました。
その理由について、”中学の仲間たちと甲子園を目指したいから”と佐々木朗希投手本人は話していたそうですが、それだけが理由ではないのかもしれません。
「朗希も迷っていました。最終的になぜ大船渡を選んだのか。その理由は私も聞いていません」
プロ野球選手になる夢をかなえるのなら、佐々木の成長し続ける身体に理解があり、何より大谷という成功例を保持する花巻東が近道だったかもしれない。
だが、佐々木は兄も通った大船渡を選んだ。「大船渡の仲間と甲子園を目指したかった」としか佐々木は話さないが、同校は志田氏、鈴木氏、布田氏ら、中学までの指導者の母校でもあった。
35年前に甲子園で大旋風を巻き起こした同校を再び聖地に導くことで、恩に報いようとしているのだろう。
引用元:ポストセブン
佐々木朗希投手は「令和の怪物」だが、その上に武士道を貫く少年だったことが分かった。
中学時代に強豪校の大阪桐蔭、花巻東などからの誘いをすべて断っていた。
その理由は「地元の仲間と打倒私立で甲子園を目指す」
これからが楽しみな若き武士が現れたということだ! pic.twitter.com/LVVxmGB1Si
— 虎落笛~! (@satikoakio) April 8, 2019
佐々木朗希投手の高校時代エピソード
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佐々木 朗希投手。
大船渡第一中では軟式野球部に所属し、3年夏にオール気仙でKB東北大会準V。
大震災の影響で陸前高田市から大船渡市に移住した。
「中学の野球が楽しくて。その仲間と一緒に甲子園に行きたい」と強豪私学には進学せず、地元の大船渡を選んだ。
漫画の主人公キャラじゃん— ktl (@sisterhiyosu) July 10, 2018
佐々木朗希投手の高校時代の成績
中学の仲間と共に地元の岩手県立大船渡高等学校に進学した佐々木朗希投手。
そこでも佐々木朗希投手は好成績を叩き出しました。
- 1年夏の県大会:147km/h
- 2年夏の県大会:154km/h
- 2年秋の県大会:高校2年生史上最速タイとなる157km/hを計測
- 3年夏の県大会:公式戦での高校生投手史上最速タイとなる160km/hを計測
- 非公式記録:2019年4月6日、高校日本代表候補による研修合宿の紅白戦にて163km/hを計測
どれもすごい記録ですが、特に非公式での記録は大谷翔平さんが持っていた当時の高校生最速記録である160km/hを3km/hも上回るものだったため、大きな注目を集め、『令和の怪物』と称されるようになりました!
これらの記録は佐々木朗希投手の才能を見込んで、しっかりリハビリさせた中学時代の先生たちのおかげでもあるでしょう。
高校監督が最後の夏に衝撃の登板回避!
佐々木朗希投手の高校時代のエピソードと言えば、3年夏・県大会の花巻東との決勝戦での衝撃の出場回避です。
佐々木朗希投手の華々しい活躍で決勝まで進出した佐々木朗希投手の高校ですが、花巻東との決勝戦において、当時のチーム監督だった國保陽平監督は「故障予防のため」を理由に、投手・打者とも佐々木朗希投手を出場回避させました。
このことで後に高校には苦情の電話が殺到し、野球関係者や評論家、そしてメディアまでも注目するほどの社会問題になりましたね。
決勝試合後、佐々木朗希投手は「投げたかったです」と一言だけ残し、監督の判断なので、と言葉を濁していましたが、悔しそうにしていたことは誰の目にも明らかでした。
この登板回避事件について、当事者の國保陽平監督は2020年にやっとの思いで真相を語ってくれました。
「プレッシャーがあったんでしょうね。(佐々木を)壊しちゃいけないというプレッシャーが。あの若さで、あの高い身長(190cm)で、滑らかなフォームで、変化球もうまくて、牽制もうまいという才能は、世界の野球の歴史を変えるかもしれない。だからこそ、壊さずに次のステージへつなげなければならないと思っていました」
(中略)
佐々木を決勝のマウンドに上げない決断は当日の朝に下したという。
「歩き方を含めた彼の様子を見て、決めました。高校3年間で一番、ケガのリスクがあるな、と。球が速い彼の場合、肩やヒジだけでなく、身体のどこに故障が出てもおかしくないですから」
試合当日、解せなかったのは、4番を任せていた佐々木を打者としても起用しなかったことだ。
「疲れている佐々木よりも、野手のほうが振れるだろうし、(勝利には)可能性があるのではないか。そう判断しました」
しかし、私には、甲子園出場と、佐々木の将来を天秤にかけ、後者を選択したように映った。花巻東戦では、先発に、4番手に目されていた3年生・柴田貴広を起用し、大量失点するや2年生左腕を投入した。端から勝負を諦めているかのような選手起用だった。私は、責任を背負い込んだふたりが試合後に泣き崩れていた姿が忘れられない。
「もちろん、勝負を捨てたわけではありません。花巻東の強力打線には、右サイドで変則の柴田のほうが、初登板で疲れもないし、少しでも抑えられるのではないかという期待がありました」
試合前、國保は佐々木に「先発では起用しない」とは伝えていたが、「リリーフとしても野手としても起用しない」とは伝えていない。それは他の選手に対しても同じ。すべてを独断で決めた。
「選手が納得しているのか、ということですよね? 納得している者もいれば、いない者もいる。個々人で違うのかなと思います。事前に、本人に相談したら、『投げたいです』と言うのは明らかだった。野手に伝えたら、『僕らが朗希をサポートするので、投げさせてやってください』と言うに決まっています。一言でも彼らに相談したら、(佐々木の登板を)止められなくなると思いました。もし疲労困憊の状況でマウンドに上がったら、力んで投げて、肩、ヒジ、腰、股関節、膝……想像でしかありませんが、将来に残るようなケガのリスクは高かったんじゃないかなと思います」
引用元:ポストセブン
この決断について、國保陽平監督自身、正しい決断だったのか毎日考えていたけど、結局、答えは分からずじまいだったそうです。